旅館ブログ

「鈴の宿 登府屋旅館」というネーミングのワケ

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師匠のブログでご紹介いただきました

サラッと登場しました。

こんにちは。

どんな形でも師匠と絡めるのはうれしい…
鈴の宿 登府屋旅館の遠藤直人です。

師匠・藤村正宏先生のブログにチラッと登場しました。

ネーミングで価値を届ける 〜ネーミングをマーケティング的に考えてみる

せっかくなので、宿のネーミングについて。

 

登府屋旅館

宿のネーミングの由来

 

旅館なのになんで「とうふや」なのか?

宿の屋号が 「とうふや」。
どうしても「お豆腐やさん」を思い浮かべてしまうこの屋号。

旅館にはふさわしくないように思われますが、実はふつりあいな中に利他的な面をもつ味のある屋号なのです…。

 

小野川が温泉場としての形をとるようになったのは、米沢が上杉領となってからである。
直江城州公(直江兼続)が白布に鉄砲の鋳造所を置いたことにより、住民も次第に増え、往来も激しくなってきた。

そこで、大佐田(小野川の南)方面から農民が移り住み、宿屋を開いてそれを兼業とする者がでてきた。

その中に 平三郎 という者がいた。

当時小野川には、家の新築やいろいろな工事のため、多くの職人や人夫が入り込み、その人達の三度の副食物にも事欠く有様であった。
これを見た義侠心の旺盛な平三郎は、豆腐を作って分け与えることを思いたち、早速製造し、供給した。これが大好評を博し、みんなから大変喜ばれた。

以後、2代、3代と継続しているうちに、平三郎の宿屋を 「とうふや」「とうふや」と呼ぶようになり、いつからともなく屋号 となった。
その後、小野川の各旅館では夫々(それぞれ)内湯を掘るようになり、平三郎の内湯は頗(すこぶ)る良いとの評判を得、「とうふや」の名湯と云われて繁盛した。

しかし、子孫代々続けてきた旅館も明治40年に没落してしまった。

翌41年、先々代の 遠藤長之助夫妻 が旅館経営に大変革を加え、再びその営業を始めた。
宿自体は生まれかわったものの、屋号が食物の「豆腐」では、営業上何の意味もなさない。

もっと意味深長な名前がないものかと考えた長之助は、ときの米沢高等女学校教頭の富永周太氏にそのことを依頼した。

氏は快諾され、
「人名湯に浴して心身の健全を保ち、治世産業を完して、各自天府に登るの楽しみを得せしむ。」

という意味から 「登府屋」 と命名したらよかろうといわれた。

夫妻は大いに喜び、以来「登府屋」の文字を用いた屋号として、現在に至っている。

 

そんなわけなんです。

 

「鈴の宿」のワケは?

屋号に対して、サブタイトルのように使われている「鈴の宿」。

けっこうこちらで覚えてくださるお客様も多く、「鈴の屋さんですか?」というごっちゃになったお問合せも受けたりします。

鈴の宿については、私からは祖母にあたる大女将が、鈴を集め始めたのがキッカケです。
ですから、昭和になってからのお話です。

当初は、「鈴の宿ってどうかなー…。」というなんとなく変な印象があり、変えようかと真剣に思ったこともあります。

しかし、世がインターネット社会になって価値が見直されました。

「登府屋」は、変換しにくいのに対し、「鈴の宿」は一発で出ます。

そこで、「登府屋で検索」では見てもらいずらいと思い、すべての表記を「鈴の宿で検索」に統一。

こんなところで重宝するようになりました。

どんな価値が眠っているのかわからない。
ネーミングの価値は、しっかり考えておくといいですね。^^

著者情報

1976年、山形県米沢市生まれ。福島大学経済学部を卒業後、㈱旭テック(現・旭ブレインズ)に勤務。その後、オーストラリアでの1年間の放浪生活、那須温泉・山水閣での研修を経て、2004年、鈴の宿 登府屋旅館にUターン。宿の仕事のかたわら、小野川温泉のまちづくりに注力していた2011年、東日本大震災を経験。震災後は、米沢の温泉旅館の連携を模索。1か月後には、「温泉米沢八湯会」を組織化し、義援金を集め、プランを作り、新たな切り口で米沢の価値を高めている。2013年、代表取締役への就任を機に「車いすでも安心して過ごせる宿」を目指す。「お客さまは、旅館ではなく旅行に来ている」という発想から『車いすで米沢を旅する本』を編纂。車いすでも安心して旅できる地域づくりを行っている。また、宿の宴会場では、不定期で自主セミナーを開催。講演テーマは、「リピーターを生み続ける仕組みづくり」「小野川温泉・米沢八湯のまちづくり」「補助金・マスコミ・ソーシャルメディア活用法」「燃料は、捨てる温泉熱!ヒートポンプで灯油ゼロ」など。自身の経験を公開しながら、他地域からの視察も積極的に受け入れている。