登府屋 屋号の由来
宿の屋号が 「とうふや」。
どうしても「お豆腐やさん」を思い浮かべてしまうこの屋号。
旅館にはふさわしくないように思われますが、実はふつりあいな中に利他的な面をもつ味のある屋号なのでした・・・。
小野川が温泉場としての形をとるようになったのは、米沢が上杉領となってからである。
直江城州公(直江兼続)が白布に鉄砲の鋳造所を置いたことにより、住民も次第に増え、往来も激しくなってきた。
そこで、大佐田(小野川の南)方面から農民が移り住み、宿屋を開いてそれを兼業とする者がでてきた。
その中に 平三郎 という者がいた。
当時小野川には、家の新築やいろいろな工事のため、多くの職人や人夫が入り込み、その人達の三度の副食物にも事欠く有様であった。
これを見た義侠心の旺盛な平三郎は、豆腐を作って分け与えることを思いたち、早速製造し、供給した。これが大好評を博し、みんなから大変喜ばれた。
以後、2代、3代と継続しているうちに、平三郎の宿屋を 「とうふや」「とうふや」と呼ぶようになり、いつからともなく屋号 となった。
その後、小野川の各旅館では夫々(それぞれ)内湯を掘るようになり、平三郎の内湯は頗(すこぶ)る良いとの評判を得、「とうふや」の名湯と云われて繁盛した。
しかし、子孫代々続けてきた旅館も明治40年に没落してしまった。
翌41年、先々代の 遠藤長之助夫妻 が旅館経営に大変革を加え、再びその営業を始めた。
宿自体は生まれかわったものの、屋号が食物の「豆腐」では、営業上何の意味もなさない。
もっと意味深長な名前がないものかと考えた長之助は、ときの米沢高等女学校教頭の富永周太氏にそのことを依頼した。
氏は快諾され、
「人名湯に浴して心身の健全を保ち、治世産業を完して、各自天府に登るの楽しみを得せしむ。」
という意味から 「登府屋」 と命名したらよかろうといわれた。
夫妻は大いに喜び、以来「登府屋」の文字を用いた屋号として、現在に至っている。
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